Gordon JohnsonによるPixabayからの画像
勇気を出して昌美がリビングに戻っていくと、秀治があの素敵なアール・デコ調のカップボードから「このグラスはシャブリ・ワインの美点をよく引き出してくれるんです。オーストリアのリーデル社製でね。リーデルはワイングラスの名門ブランドです」と言いながら、グラスを夫に渡しているところだった。
「シャブリって、フランスワインでしたっけ?」
「ええ、ブルゴーニュワインです。ブルゴーニュ地方のシャブリ村で造られます」
「白ワインなんですね?」
「辛口白ワインの代名詞ですよ。シャルドネという白ワイン用のブドウ品種から作られます。緑色の葡萄です。最初にシャルドネ種を植えたのは、何とかって修道院です。シャルドネは牡蠣などの化石を含む石灰岩質の土壌で育つためか、このワインには牡蠣がよく合いましてね」
「へえー、シャブリ村って、大昔は海の底だったんだ」
秀治の話にすっかり心酔したような表情の夫が、ふと昌美を見た。一瞬、不思議そうな顔をした彼はいつも以上に地味に見える妻を穴の空くほど凝視し、次の瞬間には目を反らした。
母親の顔を見て鼻の下を伸ばし、べそをかきかけた友裕に皓子が昌美より先に近づくと、身をかがめ、抱きあげた。二人の男性のせいで穏やかでない昌美の心情を察したかのような、隙のない行動だった。
皓子は、赤ん坊を抱いた一方の手を離し、前のほうへ流れた漆黒の髪を肩の後ろへ掻きあげると、あでやかに言うのだった。
「ああら、友くんって可愛いんだ、とっても。おめめ開けているところは、初めて見るものね。そのおめめはぱっちりとしているし、顔の感じが欧米人の子みたい。驚いちゃった」
昌美は皓子に近寄り、几帳面に礼を言って子供を受けとった。快活な皓子に夫の豊は好意に満ちた微笑を――自分自身をアピールするように――投げかける。早くも夫は酔っているかのように見えた。そして、如才ない夫は早くもあちら側の人間だった。
そうだった。彼らは早くも仲間なのだった。
夫か唐突に『ボルドー美術館展』に出かけたときのことを話し出した。
あのときは、昌美が誘い、夫は野球観戦を主張したのだった。結局、同じ日にどちらにも行ったのだったが、絵画がことさら趣味というわけでもない夫がひどく気に入った絵があった。
ポール=フランソワ・カンザックという画家の「青春の泉」という絵だった。どんな絵だったか細かなところまでは覚えていないが、背中まである銀色がかった金髪が美しい、若々しい女性の裸体が描かれていたように思う。
予感したように、夫はその絵のことを話し始めた。彼は女性の裸体のことは言わず、もっぱら自分が知らなかった画家の大作に驚かされた話をしただけだったが、昌美はなぜ夫がそんなことを言い出したのかがわかった。
彼はさっきの髪を掻きあげる皓子の仕草を見て、あの絵を思い出し、思い出すことで一層募った興奮を胸の内にとどめておくことができなくなったのだろう。しかしながら、絵の具体的な内容まで言ってしまえば、彼が皓子に好感を抱いてしまったことまでばれてしまう。
彼はさっきの髪を掻きあげる皓子の仕草を見て、あの絵を思い出し、思い出すことで一層募った興奮を胸の内にとどめておくことができなくなったのだろう。しかしながら、絵の具体的な内容まで言ってしまえば、彼が皓子に好感を抱いてしまったことまでばれてしまう。
そのことを恐れたために、当たり障りのない話にとどめたのに違いない。そうした配慮は川野辺夫妻に対するもので、妻に対するものではなかった。昌美のことなど、夫は忘れてしまっていたのだった。
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