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 綺麗な街に住むのも考えものらしい、と彼女は早くも悟る。

 ゆとりのない家族を温かく迎えてくれるような、手頃な家賃のほどほどにちゃんとした賃貸マンションなどは、お金持ちの多そうなこんな街にはかえってないのだろう。学園都市と言われるぐらいだから、学生向きのワンルームマンションや下宿などは充実しているのかもしれないが。

 つまり、ここも、庶民に暮らしやすい街ではないという点では、これまで住んできたところと同じなのだ……

 夫は昌美を降ろすと、車で一旦不動産屋まで鍵を借りに行った。その間、昌美は遠慮がちに駐車場の脇に佇んでいた。

 建物の色は元々が灰色だったのか、ベージュだったのか、よくわからない。べたっとした緑色をしたドアが六つずつ。すえた臭いがした。

 戻ってきた夫と四階まで上がった。エレベーターがないのはつらかった。通路の照明器具が割れていた。

 四階からおなかをかばうようにそろそろと下りてきた彼女が疲れた身をシートに沈めるのを待ち、夫は助手席のドアを閉めてくれた。

 運転席に戻った彼は、
「契約を済ませてしまっても、構わない?」
 と、優しく訊いてくる。

 昌美は困ったように少し顔をしかめると、仕方なくうなずいた。

「うん、構わない。三部屋あるところは上等よ。でも、どの部屋も狭いし、押入れが黴臭くて、キッチン、浴室、トイレを見ると、ここが古いだけではなくて、雑なつくりだとわかるわ。小綺麗な住まいにする自信がないけれど、わたしだっていつまでも妊婦をやっているわけではないし、それにね」
 と、ちょっと憤ったようにつけ加えた。

「うまれてくる子供が大きくなれば、パートに出るつもりだし、そうしたら、また引っ越しをしたいな。あのピンクのマンションのようなのへは無理だとしても。でも、ここ、マンションなんて、嘘っぱちね。ただのアパートなんだもの」

 夫の豊は苦笑し、窓のところで温まり、柔らかくなってしまったガムを一枚、口に入れた。エンジンをかけて、
「あのピンクの分譲マンションの背後には大きな公園があって、公園の向こう側には大学附属の小学校と中学校なんかもあるんだよ」
 と、言う。

「わたしにも、ガムを一枚ちょうだい」
 と昌美は言った。

 車が橋を渡り終えたとき、彼女はシートに身を任せたまま感慨深げに言った。
「あのピンクのマンションのあたりからは、道路を挟んで斜め向かいにある、わたしたちのアパートは見えないのね」

 傷み老いたアパートは、まるで人目を忍ぶ定めを与えられたかのように、通りからは見えない、隠れたような場所にあるのだった。