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 昌美は佐賀県の農家に生まれた。

 物心つくころから、起床後の歯磨きと洗顔を済ませるとすぐに仏壇の前へ行き、ご先祖様に手を合わせた。その部屋にはご先祖様の写真がずらりと並んでいた。

 朴訥な祖父。腰の曲がった、何かに耐えているような――心が洗われるような光を宿していることもある――小さな目をした祖母。謹厳な、頼りがいのある父。農家には肉体的にも精神的にもそぐわない、感じやすい、病弱な母。合理的な思考の持ち主だが、母に似て強壮とは言いがたい兄。

 政府の減反政策で米作りが揮わなくなったので、父と兄が祖父とやり合ったすえ、家業を畜産業に転じた。実家は、子牛を購入して飼養し、肉牛として販売する肥育農家となったのだった。

 ああ牛たち!

 昌美は食品スーパーの精肉コーナーでトレーに小綺麗に収められた血色の肉片を見ると、気持ちの昂ぶりを覚えずにいられない。彼女の実家で飼われていた、茶色の毛並みをした、茶色い目の肉牛たちを連想してしまうからだ。

 彼らが出荷の目的でトラックに乗せられるときに、どんなに哀しそうな鳴き声を出すのか、彼らをどんな運命が待ち受けているのか、彼女は知っていた。

 トラックで畜産市場まで運ばれた牛は、競りにかけられた。落札された牛は屠畜場へと運ばれる。眉間にスタンガンを撃たれて失神した牛にピッシング*1が行われ、大動脈を切開されて、彼らは放血死を迎える。そして解体され、食肉に加工されるのだ。

 牛たちは実家にかなりの儲けをもたらしてくれたとはいえ、このような職業はそもそも信仰深い、清廉な家風には合わないのだった。

 儲かれば儲かるほど、実家は牛供養に熱を入れるようになり、真っ先に母が参ってしまった。長靴を履いて牛の世話をしていた母は、牛を見送るごとに目を赤くしていた。持病を悪化させた母は、診察を受けるために出かけた病院で倒れた。

 それは昌美が短大の国文科を卒業する間際のことで、三ヶ月重体が続いた母に付き添った彼女は、卒業式と就職をふいにしてしまった。昌美の献身的な介護は、三年後に母が亡くなるまで続いた。

 その後、昌美は家の者のすすめもあって、街のはずれにあるホームセンターでアルバイトをした。

 上司として彼女に朗らかに接してくれた主任の豊は、彼女のアルバイト期間が過ぎ去るのを待ち、友人感覚でデートに誘った。物知りで、好奇心に満ちていて、気持ちのいい健啖家だった(痩せの大食いとも言えた)。

 映画館や公園で、いつも何か食べながらふたりはデートをし、しめくくりに美味しい物を食べに行って別れるのが常だった。

 福岡県に豊が転勤になったのを契機としてふたりが婚約した数日後、まだ一家の大黒柱だった用心深い父が高速道路で五台の玉突き事故に遭い、九死に一生を得た。


 怪我は回復したものの、事故の後遺症で記憶に欠落や錯綜が見られるようになった。婚約者の豊を自分の息子と混同したり、妻を亡くしたのがつい一月前のことのように言ったりした。

 結婚後もちょくちょく父の様子を見に帰ってくる昌美に、兄は父の話をした。父は障害を得てからも牛のことは自分の仕事と心得ていたのだが、そのことが厄介なのだと兄は言う。

 仕事ぶりが危なっかしく、交渉事を任せたりは絶対にできないと妹に打ち明けた。兄は独身を通していて、相変わらず体は強くなかったし、祖父母も年だった。

 平成三年に、牛肉・オレンジの輸入自由化が始まったのを境に、牛市場の競争は激化するばかりだ。いつまで実家は牛でやっていけるのだろうと案じると、昌美は夜も眠れなかった。

*1:屠畜の際、牛の脚が動くのを防ぐために、失神させた牛の頭部からワイヤ状の器具を挿入して脊髄神経組織を破壊する作業。BSA対策として、EUでは2000年からピッシングを中止、日本でも中止に向けた取り組みが行われるようになった。