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 Z…市に引っ越してきて、住まいの周辺にもいくらか慣れ、育児用品もほぼ買い揃っていた。夫の勤めるホームセンターから購入した商品も結構あった。注文を出せば、夫が見繕って買ってきてくれ、これには助かった。

 ベビーベッドを置くと、ひと部屋がほぼ潰れた。産婦人科は何軒か見つけたものの、どれもホテルのように華美な外観で、その雰囲気はこれから一個の躍動感に溢れる生命体をうみ落とそうとする昌美の生真面目でストイックな精神とは、どこかそぐわなかった。

 いくらか遠かったが、転居前にかかりつけになっていた博多駅にほど近い公立病院で赤ん坊を出産することに決め、それで気持ちが落ち着いた。

 ただ、新興住宅地の便の悪さなのだろう、ピンクの分譲マンションの側にコンビニがあったものの、食品スーパーは遠く、総合スーパーとなると、さらに遠かった。

 転勤してきたばかりで忙しく、休日には眠ってばかりいる夫をそっとしておこうと、昌美が車で総合スーパーまでまとめ買いに出かけたところ、夫に叱られた。いつ職場から電話がかかって呼び出されるかわからないから、常に車がある状態でなければ困るのだという。

 その車は彼女が持ってきたものだったのだが。夫は結婚間際に自損事故を起こしていて、幸い怪我はなかったものの、自分の車をだめにしてしまっていたのだった。そうなると、徒歩で片道半時間以上かかる道を、大きくなったおなかでとぼとぼと歩くしかなかった。

 陣痛は食品スーパーで始まった。昌美はショッピングカートのハンドルを、とっさにきつく握り締めた。果物コーナーに並ぶ苺の赤、グレープフルーツの黄からメロンの緑へと、視線を動かす。おなかが突っ張ることはこの臨月に入ってからはよくあったので、その痛みが陣痛なのかどうかが判然とせず、休み休み家に帰った。

 痛みがさらに強まり、次に起きるまでの間隔も短くなっていったので、陣痛だろうと思いながら、痛みの合間に雑事をこなし、入院の用意を整えてから病院と夫に電話をかけた。幸い、夫が職場をぬけ出して病院まで送ってくれることになった。

 公立病院へと向かう車のなかで、昌美は言った。
「春なのに、まだ寒いな。ちゃんと、うめるかしら?」
「ちゃんとうめるさ」
「幸せにしてあげることができるかしら?」
「できるさ」
 と豊は即答し、その付和雷同めいた不用意な反応に昌美は苛立った。この世は、そんなに単純なものだろうか。

 豊が突然仮面をとり、無思慮な人としての素顔を見せたかのような感じさえ抱いた。出産を控えてどこまでもナーバスになりかねない彼女は、このときこそ宝石のように緊密な、美しい答えがほしかったのだった。

 それは必ずしも、言葉である必要はなかった。微かな気配だけでも充分だったのだ。昌美の強張った雰囲気が伝わったのか、彼は押し黙った。

 昌美は車のなかから落ちて行く夕陽を眺め、そのまま陣痛の波をかぶった。波が去ったあと、今度はやわらかな声で口をきいた。

「ねえ、魂には赤ん坊も大人もなくて、皆大人なのね」
「何のことだい?」
「何でもないわ。ね、病院に行く前にドライブスルーに寄って、ハンバーガーを買わない? わたしはダブルバーガーでもいいわ。それと、シェイクね」
 と昌美が言うと、豊は呆れたような声を出した。

「何だって? おいおい昌美、こんなときにダブルバーガーを食おうって言うの? 神聖な出産の前だというのに、あれほど批判していた男のハンバーガーをぱくつこうなんて、節操のないことだな。腹、弾けるぞ!」

 豊は、昌美こそ無思慮と思ったようだった。まるで、仕返しのように。そして、ファーストフード店の前をスピードを上げて通過してしまった。