子宮口が開いてしまっても、赤ん坊を押し出すほどに陣痛が強くならなかったのは、豊がハンバーガーを食べさせてくれなかったせいかもしれなかった。
いわゆる微弱陣痛で、一向に強さを増さない単調な陣痛の波に幾度となく晒され、昌美は寒く、眠たく、疲れ果てていた。
「ああ、もうこんな時間。時間がかかりすぎる!」
と助産婦の免許をもった看護師がつぶやき、分娩台の側を離れた。
真夜中の分娩室で、昌美は看護師が陣痛促進剤の使用許可を求めて医師に電話する声を聴いた。もう一人、看護師が姿を見せ、分娩の支度にかかる。
陣痛促進剤の点滴が行われてほどなく、痛みの怒涛が押し寄せると、体の下のほうで何かがぱちんと弾けた。水風船のようにふくらんだ卵膜が破綻したのだった。あっけにとられた出産のクライマックスだった。
また最初の看護師と二人だけになった冷たい分娩室で、不自然な格好をとらされたまま、看護師が会陰裂傷を縫合し終えるのを待つ時間は永遠かと想われ、そうやって過ごす時間が長くなるほどに、自分と赤ん坊との間に深淵が口を開いていくような錯覚に襲われた。
裁縫が得意な昌美は、いっそ看護師の手から針をとり上げ、自分で縫ってしまいたいくらいだった。
黄疸が強いためにちらりと姿を見せて貰っただけだった赤ん坊は、翌日の昼過ぎになってようやく、看護師に抱かれ、病室に戻っていた昌美の元へと連れてこられた。
彼女は赤ん坊から、脂肪と出来立てのパンの匂いが混じったような匂いを嗅いだ。透明感に彩られた、まどかな顔をしている。肌の色自体は浅黒い。大人びた端正な唇をしっかり結び、髪の生え際に早くも匂うような男の子らしさがあった。
会社をぬけ出してきた夫と二人で、しげしげと赤ん坊を眺めた。黄疸の治療を続けるために、再び赤ん坊を看護師が連れて行ってしまった。しかし、新生児黄疸はよくあることで、特に心配は要らないという。
「男の子だったんだから、名前はやっぱりあれにする?」
と、興奮が冷めやらぬ面持ちで夫が簡易椅子をベッドに近寄せ、顔を突きつけるようにして訊いてくる。
すると、とっさに昌美は夫を邪険に押しのけてしまっていた。彼女は自分でも驚いて彼を見つめ、口ごもりながら弁解した。
「ごめんなさい。たった今まで……赤ん坊を見ていたせいね。あなたの顔が、怪物じみて大きく見えたの」
それだけではなかった。赤ん坊の匂いに陶酔したあとでは、夫の煙草臭混じりの息がとりわけ嫌な臭いに感じられたのだった。豊は鼻白んだ。
昌美は彼よりも同室の隣人を気にし、そちらへ目を走らせた。相当に年がいっているように見える隣人は、遠慮のためか、向こう向きにベッドに腰かけ、帝王切開でうんだという顔の長い小さな女の赤ん坊にお乳を含ませている様子だった。
「名前は、わたしはあれでいいと思う。そうあってほしいな」
と、昌美はいつもの温和なまなざしになって言った。
夫婦はあらかじめ、男女一つずつの名前を考えていた。もしも、実際に赤ん坊を見たときに、その場で別の名前がインスピレーションで浮かぶようなら、その名前にしようと話し合ってもいたのだった。
「俺もあれでいいと思うよ。じゃ、決定だな。友人に恵まれ、ゆとりのある人生を送ることができますように――との願いを籠めて――友裕(ともひろ)と」
豊の言葉に昌美はうなずいた。
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