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 郊外に新たに建設された街――いわゆるニュータウン――というのは、内実から言えば、洒落た見かけとは裏腹に、街というよりはいっそ開拓村と呼ぶほうが理に適う。

 商店街と言えるほどのものはない。働きざかりの人々は車や電車で会社へ出かけていく。学生は学校へ、老人は少ない。白昼のニュータウンで見かけるのは、幼い子供を連れた女性くらいだ。

 彼女たちは子供たちを外気に触れさせるため、ネットワーキング――人と人とのつながり――のため、さらにはコミュニティを求めて外へ出てくる。公園に行ってみようと思う。

 自分と同じ育児という課題に生きている人々に気軽に出会える場所といえば、さしあたって公園くらいしか思い浮かばないからだ。

 これが海外、例えばドイツなどでは公的な団体、教会、個人などが主催する育児サークル、シュペールグルッペのようなものも存在しようが、まだ日本では望むべくもない。

 公園のようなところで、我が子を第一義とする母親の利害を背景として自然発生したようなコミュニティはとうしたって生理的雰囲気に支配され、原始的、盲目的な力の論理を帯びてくることになる。母親の観音的側面よりは、いっそ鬼神的側面が公園を覆う。

 街らしい街の公園が多様な年齢層の人々を抱擁しているのに対して、ここでは若い母親といたいけな子供以外は存在せず、公園は閉鎖的な側面を募らせていく。

 とはいえ、公園は広々としてこの季節、美しかった。風は西南から吹いていた。

 すり鉢状になった公園の斜面にはコスモス彼岸花、紫苑が咲き乱れ、花壇にはサルビアマリーゴールドがあった。萩、芙蓉といった低木が花を咲かせ、金木犀が強い芳香を漂わせている。

 砂場、すべり台、ブランコ、シーソーなどの遊具があるあたりには、走り回れるくらいの大きさになった子供たちがいて、一つのグループが形成されている。

 そのなかへ入ってこうかどうしようかと躊躇しているかのような、緊張した背中を見せている女性が、公園の入り口に植えられたサルスベリの木の陰にいるのを昌美は見た。

 長身のすっきりとした後ろ姿で、白いコットンのパンツにミントグリーンが爽やかな太ボーダー柄の七分袖Tシャツを着ていて、白いクローシュ――釣り鐘状の帽子――を被っている。クローシュから痩せた背中にかけて、漆黒の髪の毛が垂直にかかっていた。

 人の気配を感じ、それに敏感に反応して、女性はシャープな身振りを示した。振り返りざま、挑むような視線をたまたまそこにやってきただけの昌美に注ぎかけてきたのだった。

 昌美は軽く息をのみ、ベビーカーのハンドルを握り締めた。