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クライスラー・ビルディング(アール・デコ建築)


 その夜、店内の陳列替えのために遅くになって帰宅した夫とふたりで夜食といっていいような夕食を済ませていると、雨が降り出した。風のせいで不揃いに聴こえる雨音にちょっと耳を傾けてみて、昌美は言った。

「あの分譲マンションね、新しいせいか、ひどく湿気があるんですって。うちは建物が古いせいか、元々欠陥があるせいかは知らないけれど、雨が降ると、押入れの一角が濡れたみたいになることがあるわよね。そこに布団なんて、とても置けないくらいに。さすがに、そんなことは言えなかったな」

 おかずの肉じゃがを肴にキリンの発泡酒を呑んでいた夫は、ふーんと生返事をした。彼は少しだけ贅沢をしたいときには発泡酒*1ではなくてビール「一番搾り」を買ってくるのだったが、この日は倹約の必要があるのか、発泡酒だった。

「お部屋の家具はマンションの外観に合わせてアール・デコ調のものを揃えたんですって。アール・デコという言葉は知っていたけれど、何のことかわからなかったから、辞書で調べてみたわ。アール・デコの原義は『美術装飾』で、一九〇二年から三〇年にフランスを中心として欧米で流行した装飾美術の一様式をいう――とあった。日本が大正から昭和に移る頃のことよ。幾何学形態などに特色を示す――ともあって、そういえば、リビングの食器棚もダイニングのテーブルや椅子も面白くて、優雅な形をしていたのよね。皓子さんは食器棚のことをカップボードと言うの。大学は、あの有名なX…大の英文科を出たんですって。それで、自然にカップボードなんて言いかたが出るんでしょうねえ。ああ、そのカップボードの背板は銀張りよ。食器が映って綺麗で……」

 熱に浮かされたように話し出した妻を、夫の豊はびっくりして眺めていた。何となく不機嫌になって、
アール・デコはフランス語だろ? じゃあカップボードじゃなくて、プラカールとでも言えばいいじゃないか」
 と返した。

 昌美は笑い、
「あなた、大学でフランス語を選択したんだっけ。違う? じゃあ漫画で仕入れた知識なんでしょう。それも違うんですって? ああ、そんな商品名の食器棚があるのね。ちょっと待ってて。食器を流しに持っていったら、最初から話すから」
 と、楽しげに言った。

「フランス語のプラカールくらい、ホームセンターに勤める人間の常識ですよ、常識」
 と言ったあとで、豊は小声で白状した。
「実は、大学の近くにプラカールという名のさびれたスナックがあったんだ。マスターに意味を訊いたことがあったのさ」

 テーブルと流しの間を軽快に三往復して戻ってきた彼女は、公園の入り口での川野辺皓子という女性との出会いと、住まいに招かれたいきさつを語った。子供たちの月齢は近く、皓子の子供のほうが友裕より一月ほど早く生まれただけだということも話した。

 美的なものに感応しやすい昌美は皓子の住まいについて、まるで美術館でも訪ねたかのような話しかたをするのだった。夫と一緒に発泡酒を呑んだわけでもなかったのに、頬がほんのり薔薇色に染まっている。

*1:ビール風アルコール飲料。ビールに比べると低価格。