「エントランスには応接セットがあって、待ち合わせていたのか、休憩していたのか、セールスマンふうの人がソファにいたわ。その向こうにはカウンターがあって、管理人さんがいるの。ドアはオートロック式になっていてね、あれがどういう仕組みになっているのかを初めて知ったなあ。わたしが皓子さんを訪ねるときにはエントランスでオートロックの鍵の横についているボタンを押すわけ。そうすると、家のなかのインターホーンに通じて、相手が誰かを確認した皓子さんがインターホーンについているボタンを押せば、ドアが開くのよ」
夫は、妻がこのようなとりとめのない話しかたをするのを初めて聞いた気がして違和感を覚えたが、新しい友人が自分の勤める店からチャイルドシートを購入したがっているという話になると、表情をやわらげた。
皓子は購入するだけでなく、正しいチャイルドシートのとりつけかたを教わりたいという。実は皓子には憂いがあり、それは商社マンの夫に急にサウジアラビアに転勤命令が下ったことだった。ついては、昌美と家族ぐるみで懇意になれればどんなにありがたいか、と彼女は言うのだった。
サウジアラビアについて行くことも考えたが、子供とふたりで残ることにし、が、それはとても心細いことだという。それを告げる皓子は、昌美の目に思わずホロリとなるほど、しおらしく映った。
皓子の夫も心配している――それで、チャイルドシートのつけかたを教えて貰えたら、そのお礼及びお近づきのしるしに久保一家を夕食に招待したいのだという。
思いがけない話の流れに、夫も興奮し出した。
自ら選択した職業とはいえ、就職を境に――否、大学入学を境にというべきかもしれない――、これまで意識せずにぬくぬくと生きてきた社会のなかのある階層から蹴落とされたのを豊ははっきりと感じていた。
それが、両親の庇護から離れて巣立つということなのだろう。蹴落とされて押し込まれたそこは、これまでいたところより明らかに見劣りがするものだった。
そのことをはっきりと思い知らされたのは、健康保険証(被保険者証)を手にしたときだった。父親とは同じ転勤族になったが、父親がまだ健在だったころに見慣れていた保険証とは色も種類も違っていたのだ。
保険証に、社会の階層が映し出されていたとは! 保険証にはランク分けがあって、さまざまなことが読みとれるようになっている。
例えば、大手企業で働いている人とその扶養家族が加入するのは組合管掌健康保険(保険者は健康保険組合)、中小企業で働いている人とその扶養家族が加入するのは政府管掌健康保険(全国健康保険協会――協会けんぽ――)になる。
もっと勉強してよい大学に入り、給料も福利厚生もよい一流企業に入ればよかった……と思っても、もう遅かった。だとすれば、逆の人間もいるということだ。就職を境に、それまでよりランクアップした階層に入る人間が。
また、妻の知り合った女性の夫が商社勤めだからといって、その夫が一流企業のサラリーマンとは限らない。商社にもピンからキリまであるのだ。しかし、おそらくはその夫――川野辺氏は父親と同じ保険証を手にしているのだろうと豊は思った。
一流企業のなかの嫌らしいピラミッド構造のなかで父親が疲弊していくのを子供のころから感じていた豊はそんな父親を見るのが嫌で、中学時代は不良グループに入って遊べるだけ遊んだ。不良グループといっても、学校や家庭が性に合わないため、サボって無難な遊びをしていた連中にすぎなかった。
そうした行為の当然の結果として、名のある大学とは縁のない大学受験となったが、それは父親の生きかた――父親が選択した企業というべきか――に対する反発心が招いた豊自身の選択だったともいえた。
とっくに鬼籍に入っている父親が、草葉の陰で豊の歩く道を祝福してくれているのか、嘆いているのか、彼には知るすべもない。中小企業に就職して後悔に襲われる一方では、戦国時代のような流通業界の有様にゲーム感覚が刺激されていた。
地方勤務からサウジアラビアに転勤になると聞くと、商社のなかではエリートからは脱落した組だろうな、と豊は憶測した。
農家とはいっても、妻の昌美が生まれた家は旧家で、太平洋戦争で没落していなければ、お嬢様だろう。豊は昌美が意識せずに身につけている奥ゆかしい雰囲気に惹かれた。中小企業のサラリーマンの妻としてはそうした部分がむしろマイナスに働くに違いないとわかっていながら、彼はプロポーズしてしまったのだった。
妻の開拓した人間関係が、もし蹴落とされた階層へと通じる裏道になるのだとしたら面白い、と豊は興奮したのだった。それがとんでもない獣道だということを、そのときの豊には知るよしもなかった。
「それはいいけれど……」
と、川野辺夫妻の招待を受ける意向を豊は匂わせると、普段着のジャケットに五日ほど入れっぱなしにしていたパチンコの景品のアーモンドチョコをとりに立った。
戻ってきながら、
「それはいいけれど、実はそれとは別の話があるんだ。アメリカに行っていいかな?」
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