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五日後、川野辺家に招かれた久保夫妻は酔っ払って自宅に戻ってきた。
いとまを告げる前から泣き出していた友裕は、疲れと興奮のためにいつまでも泣きやまない。その声は、贅沢な空間を抱いた快適なピンクの分譲マンションからすれば、物置かと思えるような古い狭いマンションの一室に大きく響きわたるのだった。
離乳のすすんでいないせいで、まだ果物のような匂いのする友裕の口のはたに昌美は酒臭いキッスをした。何かものわびしく、もの哀しかった。夫の豊は、風呂に入ると言いながら、毛布を引っ張り出して寝てしまっていた。
泣きやんだ友裕を昌美は下ろそうとして、子供の布団に侵入してきている夫の酒気をおびて掌が赤らんだ大きな重い腕を、子供を抱えていないほうの手で持ちあげ、力を振り絞って向こうへ放った。
あの嫌味な夫婦に単純に追従した夫の腕を、世界の果てまでも放ってしまいたかった。すると夫は「ん」と言って寝返りを打ち、うまい具合に向こうへ転がった。この頃にはベビーベッドは片づけ、一家は川の字になって寝ていたのだった。
昌美がキッチンへ行きかけたとき、またもや夫が、今度は体ごと子供の布団に転がってくるのを見た。やわらかな友裕の体に彼の手がのっかる。彼女はあたかも歩兵であるかのようにすばやく駆け寄ると、その手を息子から払いのけ、ため息を一つ残してキッチンへ行った。
昌美はタッパーウェアを洗い始めた。ポリエチレン製の容器に染みついた食物の匂いを洗い落しておきたかった。それにしても――と、彼女は思う。この中身は結局のところ、捨てられてしまったに違いない。
昌美はこれまで、体育の授業で創作ダンスを踊っているときのフォームの美しさや球技のときの敏捷さを褒められたことがあった以外は、もっぱら料理の腕を褒められた。母から、友人から、夫の同僚からも。
昌美が料理をすると、食材が生き返るようだった。それは彼女が野菜の形や色に感嘆したり、魚や家畜たちの無念さを感じたりすることと無関係ではなかった。盛りつけも、見るからに清潔そうで綺麗だった。
今は洗いあがったタッパーウェアだったが、昌美は時計の針が午後七時十五分を指すのに合わせて筑前煮を詰めたのだった。酒の肴になるだろうと思いこしらえたのだったが、どんなに美しく詰めたつもりでも、手料理が他人の目に不味く不潔に見えたところで不思議ではない。
嫌がられる可能性も考え、彼女は昼間友裕を連れてバスに乗り、花と果物を買ってきた。夫には、キリンの一番搾りを買てきてくれるように頼んだ。それらの手土産と共に、一家は約束した午後七時三十分にピンクのマンションのエントランスに立っていた。
上にあがって挨拶だけ交わし、夫は車に載せてきた注文されたチャイルドシートの取りつけかたを皓子に教えるために、彼女と連れ立って下へ降りて行った。皓子に案内されたリビングのドアに近いところに、昌美は身の置きどころのない思いで、友裕を抱いたまま立っていた。
皓子の夫、川野辺秀治は客の存在など気にかけていないかのようで、リビングに置かれたキャメルのレザーソファに半ば寝そべるように座り、テレビを観ながら何かアルコールを飲んでいた。チューリップのように縁がすぼまった、脚つきのグラスを手にしているところを見ると、ワインだろうか。
秀治はのんびりと声をかけてきた。
「お子さんを、そこへ下ろしたら?」
ソファとテレビのあいだの広い床に、このあいだ来たときはなかった、モスグリーンのラグが敷かれている。
「ええ。でも、何だか汚してしまいそう……」
「構いませんよ。たった今まで、そこで晶のやつが遊んでいたんですから」
それは、ラグに置かれた二つの玩具を見ればわかった。一目見ただけで、それらが遠いところから直に運ばれて来た商品だとわかる。正式な一員と認められた、歴とした川野辺家の玩具なのだ。
あとで聞かされたところでは、いずれも皓子の母親がパリから買ってきたものだという。一つは、頭と四つの輪にした胴体のパーツでできたミツバチのマスコットだった。もう一つは「ノアの箱舟」という玩具で、ぬいぐるみのノア夫婦と動物たちが箱舟の形をしたバッグとセットになっていた。
昌美は恐る恐るラグに友裕を下ろしてみた。秀治とでは、言葉が続かない。しかし、二人のあいだでそのことを気にしているのは昌美一人のようだった。
秀治には、妻の皓子に似た鋭さ――油断のなさ、いや、ぬけ目のなさといったほうがいいかもしれない――があり、他人を見るときの目に、どこか相手を嘲笑うような色合いがあった。それが、昌美をくつろいだ気分から遠ざけるのだった。
育ちのよい人たちにはあまり見えない彼らには、地方から都会に移植された人間に特有の人工臭があって、都会人とはこういう種類の人々をいうのだろうか、と昌美はぼんやり考えていた。
尤も、容貌だけとってみれば、秀治にはむしろ温和さに結びつくような特徴のほうが勝っていた。色白で、ふっくらとした顎に、ぽってりとした紅い唇。眉は夫婦揃って濃い。そろそろ中年太りの始まった体は頑丈そうで、何かスポーツをやっていそうだった。まるい目に似合わない鋭い眼光。頭のよい人々というのは、このような目をしているものなのだろうか。
「あの、晶くんは」
「ああ、眠っているんですよ」
また会話が途切れた。
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