
Дарья ЯковлеваによるPixabayからの画像
昌美が必死で息子と遊んでいるふりをしていると、秀治が言う。
「何か肴がほしいな」
昌美は一瞬、我が耳を疑い、
「肴……ですか?」
と鸚鵡返しにつぶやいた。かってのわからない他人の家で、しかも、そこの家の主人にこんなことを言い出されて、彼女は困惑した。
「筑前煮がありますけれど」
と言うと、今度は相手のほうが自分の耳を疑った様子だった。
と言うと、今度は相手のほうが自分の耳を疑った様子だった。
「えっ? チクゼン、に?」
「そうです、チクゼンニですわ」
と我知らず慣れない言葉遣いになり、昌美はあてずっぽうにキッチンのあるらしいほうへ行こうとした。うつ伏せになったおなかで体を支え、両手を広げて、ご機嫌で飛行機ブンブンをしている友裕をちらと確認する。
と我知らず慣れない言葉遣いになり、昌美はあてずっぽうにキッチンのあるらしいほうへ行こうとした。うつ伏せになったおなかで体を支え、両手を広げて、ご機嫌で飛行機ブンブンをしている友裕をちらと確認する。
リビングからダイニングへぬけ、そこからキッチンらしきところに回り込んだ彼女は、そこに突っ立って呆然となってしまった。確かにそこはキッチンで、間違いはなかったが、整然と片付いて、いやまるで、ここで料理されたことは一度もないみたいだった。システムキッチンのディスプレーを見るようだった。
これもあとでわかったことだったが、実際、皓子はここで大した料理はしないのだった。
夫の秀治はほぼ毎日接待で取引先と飲みに行かなければならず、家で夕食をとることがほとんどなかった。休日には車で外食に出るか、買うか、とるかしたし、普段の自分のぶんは彼女の母親が「到来物だけれど」とか、「百貨店の物産展に出かけたので」とか言って送ってくるもので結構間に合った。そうしたものに手を加える程度の料理しかせずに済む。
皓子の実家は贈り物が途絶えることがなく、また百貨店の外商部の人間が規則的に――上顧客の御用聞きに――出入りするような家だった。そろそろ本格的になってきた晶の離乳食とて、今のところはまだ市販品に頼ることが多かった。
あまりに片付いたキッチンを見、訳がわからない思いで昌美は持参したタッパーウェアを探した。冷蔵庫を勝手に開けるわけには……と思いながら、ふとキッチン内の背面収納に付けられたカウンタースペースを見ると、そこにあった。
タッパーウェアを包んだビニール風呂敷の結び目を解こうとしているとき、皓子たちが戻ってきたらしい物音がし、声が聴こえた。うろたえているところへ、皓子に訴える秀治の甘えたような声がする。
「皓子ぉ。生牡蠣のレモンがけが食べたい。シャブリにはあれがないと、つまらんよ。早く持ってきてくれ。ブリア・サヴァランもあっただろ、そいつもな」
昌美は真っ赤になった。すると、また秀治の声がした。盗み聞きしていたいわけではなかったが、彼女はキッチンから動けなかった。
「今夜は勝手なことを申しまして、どうも。久保さんは、ワインはいけるの? そう、いけるんですか。それはよかった。ワインには、わたし、久しく凝っていましてね。必然的にチーズにもね」
夫に流暢に話しかける秀治の変わり身の早さに、昌美は驚いた。公園の入り口で同じような驚きを覚えたことを彼女は思い出した。秀治にとって、自分は物の数ではない人間なのだろうか――そうとしか、昌美には考えられなかった。夫は……豊は、車のことで何かお愛想を言っている。