マダムNの純文学小説

2016年11月

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「エントランスには応接セットがあって、待ち合わせていたのか、休憩していたのか、セールスマンふうの人がソファにいたわ。その向こうにはカウンターがあって、管理人さんがいるの。ドアはオートロック式になっていてね、あれがどういう仕組みになっているのかを初めて知ったなあ。わたしが皓子さんを訪ねるときにはエントランスでオートロックの鍵の横についているボタンを押すわけ。そうすると、家のなかのインターホーンに通じて、相手が誰かを確認した皓子さんがインターホーンについているボタンを押せば、ドアが開くのよ」

  夫は、妻がこのようなとりとめのない話しかたをするのを初めて聞いた気がして違和感を覚えたが、新しい友人が自分の勤める店からチャイルドシートを購入したがっているという話になると、表情をやわらげた。

 皓子は購入するだけでなく、正しいチャイルドシートのとりつけかたを教わりたいという。実は皓子には憂いがあり、それは商社マンの夫に急にサウジアラビアに転勤命令が下ったことだった。ついては、昌美と家族ぐるみで懇意になれればどんなにありがたいか、と彼女は言うのだった。

 サウジアラビアについて行くことも考えたが、子供とふたりで残ることにし、が、それはとても心細いことだという。それを告げる皓子は、昌美の目に思わずホロリとなるほど、しおらしく映った。

 皓子の夫も心配している――それで、チャイルドシートのつけかたを教えて貰えたら、そのお礼及びお近づきのしるしに久保一家を夕食に招待したいのだという。

 思いがけない話の流れに、夫も興奮し出した。

 自ら選択した職業とはいえ、就職を境に――否、大学入学を境にというべきかもしれない――、これまで意識せずにぬくぬくと生きてきた社会のなかのある階層から蹴落とされたのを豊ははっきりと感じていた。

 それが、両親の庇護から離れて巣立つということなのだろう。蹴落とされて押し込まれたそこは、これまでいたところより明らかに見劣りがするものだった。

 そのことをはっきりと思い知らされたのは、健康保険証(被保険者証)を手にしたときだった。父親とは同じ転勤族になったが、父親がまだ健在だったころに見慣れていた保険証とは色も種類も違っていたのだ。

 保険証に、社会の階層が映し出されていたとは!  保険証にはランク分けがあって、さまざまなことが読みとれるようになっている。

 例えば、大手企業で働いている人とその扶養家族が加入するのは組合管掌健康保険(保険者は健康保険組合)、中小企業で働いている人とその扶養家族が加入するのは政府管掌健康保険全国健康保険協会――協会けんぽ――)になる。

 もっと勉強してよい大学に入り、給料も福利厚生もよい一流企業に入ればよかった……と思っても、もう遅かった。だとすれば、逆の人間もいるということだ。就職を境に、それまでよりランクアップした階層に入る人間が。

 また、妻の知り合った女性の夫が商社勤めだからといって、その夫が一流企業のサラリーマンとは限らない。商社にもピンからキリまであるのだ。しかし、おそらくはその夫――川野辺氏は父親と同じ保険証を手にしているのだろうと豊は思った。

 一流企業のなかの嫌らしいピラミッド構造のなかで父親が疲弊していくのを子供のころから感じていた豊はそんな父親を見るのが嫌で、中学時代は不良グループに入って遊べるだけ遊んだ。不良グループといっても、学校や家庭が性に合わないため、サボって無難な遊びをしていた連中にすぎなかった。

 そうした行為の当然の結果として、名のある大学とは縁のない大学受験となったが、それは父親の生きかた――父親が選択した企業というべきか――に対する反発心が招いた豊自身の選択だったともいえた。

 とっくに鬼籍に入っている父親が、草葉の陰で豊の歩く道を祝福してくれているのか、嘆いているのか、彼には知るすべもない。中小企業に就職して後悔に襲われる一方では、戦国時代のような流通業界の有様にゲーム感覚が刺激されていた。

 地方勤務からサウジアラビアに転勤になると聞くと、商社のなかではエリートからは脱落した組だろうな、と豊は憶測した。

 農家とはいっても、妻の昌美が生まれた家は旧家で、太平洋戦争で没落していなければ、お嬢様だろう。豊は昌美が意識せずに身につけている奥ゆかしい雰囲気に惹かれた。中小企業のサラリーマンの妻としてはそうした部分がむしろマイナスに働くに違いないとわかっていながら、彼はプロポーズしてしまったのだった。

 妻の開拓した人間関係が、もし蹴落とされた階層へと通じる裏道になるのだとしたら面白い、と豊は興奮したのだった。それがとんでもない獣道だということを、そのときの豊には知るよしもなかった。

「それはいいけれど……」
 と、川野辺夫妻の招待を受ける意向を豊は匂わせると、普段着のジャケットに五日ほど入れっぱなしにしていたパチンコの景品のアーモンドチョコをとりに立った。

 戻ってきながら、
「それはいいけれど、実はそれとは別の話があるんだ。アメリカに行っていいかな?」

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クライスラー・ビルディング(アール・デコ建築)


 その夜、店内の陳列替えのために遅くになって帰宅した夫とふたりで夜食といっていいような夕食を済ませていると、雨が降り出した。風のせいで不揃いに聴こえる雨音にちょっと耳を傾けてみて、昌美は言った。

「あの分譲マンションね、新しいせいか、ひどく湿気があるんですって。うちは建物が古いせいか、元々欠陥があるせいかは知らないけれど、雨が降ると、押入れの一角が濡れたみたいになることがあるわよね。そこに布団なんて、とても置けないくらいに。さすがに、そんなことは言えなかったな」

 おかずの肉じゃがを肴にキリンの発泡酒を呑んでいた夫は、ふーんと生返事をした。彼は少しだけ贅沢をしたいときには発泡酒*1ではなくてビール「一番搾り」を買ってくるのだったが、この日は倹約の必要があるのか、発泡酒だった。

「お部屋の家具はマンションの外観に合わせてアール・デコ調のものを揃えたんですって。アール・デコという言葉は知っていたけれど、何のことかわからなかったから、辞書で調べてみたわ。アール・デコの原義は『美術装飾』で、一九〇二年から三〇年にフランスを中心として欧米で流行した装飾美術の一様式をいう――とあった。日本が大正から昭和に移る頃のことよ。幾何学形態などに特色を示す――ともあって、そういえば、リビングの食器棚もダイニングのテーブルや椅子も面白くて、優雅な形をしていたのよね。皓子さんは食器棚のことをカップボードと言うの。大学は、あの有名なX…大の英文科を出たんですって。それで、自然にカップボードなんて言いかたが出るんでしょうねえ。ああ、そのカップボードの背板は銀張りよ。食器が映って綺麗で……」

 熱に浮かされたように話し出した妻を、夫の豊はびっくりして眺めていた。何となく不機嫌になって、
アール・デコはフランス語だろ? じゃあカップボードじゃなくて、プラカールとでも言えばいいじゃないか」
 と返した。

 昌美は笑い、
「あなた、大学でフランス語を選択したんだっけ。違う? じゃあ漫画で仕入れた知識なんでしょう。それも違うんですって? ああ、そんな商品名の食器棚があるのね。ちょっと待ってて。食器を流しに持っていったら、最初から話すから」
 と、楽しげに言った。

「フランス語のプラカールくらい、ホームセンターに勤める人間の常識ですよ、常識」
 と言ったあとで、豊は小声で白状した。
「実は、大学の近くにプラカールという名のさびれたスナックがあったんだ。マスターに意味を訊いたことがあったのさ」

 テーブルと流しの間を軽快に三往復して戻ってきた彼女は、公園の入り口での川野辺皓子という女性との出会いと、住まいに招かれたいきさつを語った。子供たちの月齢は近く、皓子の子供のほうが友裕より一月ほど早く生まれただけだということも話した。

 美的なものに感応しやすい昌美は皓子の住まいについて、まるで美術館でも訪ねたかのような話しかたをするのだった。夫と一緒に発泡酒を呑んだわけでもなかったのに、頬がほんのり薔薇色に染まっている。

*1:ビール風アルコール飲料。ビールに比べると低価格。

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 クローシュからのぞいている引き締まった顔はまっすぐに昌美のほうに向けられていて、その女性がキャリアで前向きに抱えている赤ん坊がまた、母親とどっこいの手強そうなしかめっ面でこちらを見つめている。

 尤も、赤ん坊のほうは単に光がまぶしいだけなのかもしれなかった。濃い眉、濃い睫毛に小気味よく尖った鼻、傲慢な感じさえ与えるしっかりした顎は母親似だったが、母親がよく日に焼けた肌色をしているのに比べ、赤ん坊はちっとも日に焼けてはいない。

 水色のキャリアの背当てには、雪のように白い天使の羽の飾りがついていた。赤ん坊はグレーに黒い恐竜の柄が洒落た、足元までカバーされたロンパースを着ている。

 一方、女性のほうでも昌美のパッとしない身なりとおとなしそうな顔、やはりパッとしないロンパースを着たベビーカーのなかで眠りこけている赤ん坊……といったものをすばやく捉えた様子だった。

 何かしら勝ち誇ったような色合いが、その猫のもののような輝きを放つ瞳に拡がるのを昌美は見、すっかり驚きながら遠慮がちに会釈をした。

都会的で洗練された外観の女性が、野性味むき出しの露骨な目つきをしたという出来事に昌美は打ちのめされ、田舎者の素朴な驚きを覚えたのだった。

 が、女性の表情は一瞬にして変化を見せ、今度は華やかな、愛想のよい顔つきとなって、昌美に話しかけてくる。

「こんにちは。坊やは気持ちよくおねんねですね。わたし、川野辺皓[こう]子と申します。この子はショウ――晶――。この公園に来たのは今日が初めてなんですけれど、あなたは? あそこで遊んでいるかたたちとはお知り合いでいらっしゃるの?」

 張りのある声で畳みかけるように話しかけられ、昌美はこわごわ答えた。
「わたしも今日たまたま、ここへ来てみただけなんです。久保昌美といいます」

 すると、なーんだというような、人を軽んじるような調子が皓子という女性の表情に浮かんだ。

 昌美はそれを見て見ぬふりをし、
「子供の名はトロヒロ――友裕――です」
と、つけ足した。

 そして、ものやわらかな物腰はそのままに口を閉ざした。早くここを立ち去ろうと思いながら。ところが、事態は思いがけない展開を見せることになるのだった。

 皓子は、昌美が公園で遊んでいる子供たちの親と知り合いではないということに解放感を覚えたらしく、ややだらしなく見えるくらいに唇を開け気味にして微笑した。そうすると、頑丈そうな顎に似合いのしっかりとした見事な歯並びがこぼれた。

「そう、あなたはあの人たちのお仲間とは違うのね。あれを見ると、ちょっとね。あそこで遊んでいる子たちはだいぶ大きいし、お母さんたちもたいそう仲よさそうでしょ。あそこへ入っていくのはまた今度にして、よろしかったら、うちへいらっしゃらない? この公園の近くなんですよ」

 そして、皓子はあのシェルピンクと白を使った分譲マンションの名を告げたのだった。

 昌美はおののき、とっさに皓子の招待に応じるべきか否かを迷うのだったが、
「いいんですか?」
 と問いかけると、顔を赤らめた。

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 郊外に新たに建設された街――いわゆるニュータウン――というのは、内実から言えば、洒落た見かけとは裏腹に、街というよりはいっそ開拓村と呼ぶほうが理に適う。

 商店街と言えるほどのものはない。働きざかりの人々は車や電車で会社へ出かけていく。学生は学校へ、老人は少ない。白昼のニュータウンで見かけるのは、幼い子供を連れた女性くらいだ。

 彼女たちは子供たちを外気に触れさせるため、ネットワーキング――人と人とのつながり――のため、さらにはコミュニティを求めて外へ出てくる。公園に行ってみようと思う。

 自分と同じ育児という課題に生きている人々に気軽に出会える場所といえば、さしあたって公園くらいしか思い浮かばないからだ。

 これが海外、例えばドイツなどでは公的な団体、教会、個人などが主催する育児サークル、シュペールグルッペのようなものも存在しようが、まだ日本では望むべくもない。

 公園のようなところで、我が子を第一義とする母親の利害を背景として自然発生したようなコミュニティはとうしたって生理的雰囲気に支配され、原始的、盲目的な力の論理を帯びてくることになる。母親の観音的側面よりは、いっそ鬼神的側面が公園を覆う。

 街らしい街の公園が多様な年齢層の人々を抱擁しているのに対して、ここでは若い母親といたいけな子供以外は存在せず、公園は閉鎖的な側面を募らせていく。

 とはいえ、公園は広々としてこの季節、美しかった。風は西南から吹いていた。

 すり鉢状になった公園の斜面にはコスモス彼岸花、紫苑が咲き乱れ、花壇にはサルビアマリーゴールドがあった。萩、芙蓉といった低木が花を咲かせ、金木犀が強い芳香を漂わせている。

 砂場、すべり台、ブランコ、シーソーなどの遊具があるあたりには、走り回れるくらいの大きさになった子供たちがいて、一つのグループが形成されている。

 そのなかへ入ってこうかどうしようかと躊躇しているかのような、緊張した背中を見せている女性が、公園の入り口に植えられたサルスベリの木の陰にいるのを昌美は見た。

 長身のすっきりとした後ろ姿で、白いコットンのパンツにミントグリーンが爽やかな太ボーダー柄の七分袖Tシャツを着ていて、白いクローシュ――釣り鐘状の帽子――を被っている。クローシュから痩せた背中にかけて、漆黒の髪の毛が垂直にかかっていた。

 人の気配を感じ、それに敏感に反応して、女性はシャープな身振りを示した。振り返りざま、挑むような視線をたまたまそこにやってきただけの昌美に注ぎかけてきたのだった。

 昌美は軽く息をのみ、ベビーカーのハンドルを握り締めた。

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ペンシルバニアのレヴィットタウン
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 今しがた妻が見せた 険のある素振りにわだかまりを残していた夫は、病室を去る直前まで、一人で留守宅を守り職場での戦いに立ち向かっている自分へのねぎらいの言葉を期待していた。

 そのことがわかりすぎるほどわかっていながら、昌美は夫の望む晴れやかなムードを作り出せず、優しい言葉もかけられないまま、そっけなく見送ってしまった。

 出産疲れと産後すぐにやってきた母親としての勤めが重荷に感じられていた彼女は、すっかり娘時代に帰っていたのだった。

 神経に障る股の傷の痛みと元の大きさに戻ろうとする子宮の収縮からくる生理痛のような痛みとが、やり場のない気持ちをわずかにまぎらせはしたものの、彼女は悄然となった。

 我に返り、
「騒がしくして、すみませんでした」
 と声をかけると、隣人は身じろいだ。姿勢が自由にならない様子で、半分だけ振り返った。

 自分の子そっくりの長い顔に黄ばんだ肌色をした隣人は、
「構いませんよ」
 と答え、何か話したそうに間を置いた。そして、しめやかに話しかけてくる。

「ねえ、お母さん。病院で同じようにしてうまれてきたこの子たちは、外に出たら、それぞれの人生を歩むことになるんですよね。赤ちゃんを待ち受けている環境と運命は十人十色でしょうしね」

 昌美ははっとして、そうですね、と言葉を返した。隣人の言葉に潜んでいる冷厳な現実に打たれ、厳粛な気持ちにさせられていた。彼女はベッドを下り、子供が母親を慕うかのように隣人のベッドを訪れた。しばらく、隣人の側で一緒に赤ん坊を見ていた。


 Z…市A地区につくられたような新興住宅地の起源がアメリカに求められることは言うまでもない。一九四七(昭和二十二)年にウィリアム・レヴィットがロングアイランドのジャガイモ畑を整備し、土地と家をセットにして売り出したのがその原型といえた。

 レヴィットタウンをモデルとしてつくられた日本の新興住宅地が、レヴィットタウンのつくり出した生活様式及びその問題点を大なり小なり引き継いでしまうことはありえよう。レヴィットタウンは差別問題をうみ、消費社会の環境に依存するアイデンティティの問題をうんだとされる。

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 子宮口が開いてしまっても、赤ん坊を押し出すほどに陣痛が強くならなかったのは、豊がハンバーガーを食べさせてくれなかったせいかもしれなかった。

 いわゆる微弱陣痛で、一向に強さを増さない単調な陣痛の波に幾度となく晒され、昌美は寒く、眠たく、疲れ果てていた。

「ああ、もうこんな時間。時間がかかりすぎる!」
 と助産婦の免許をもった看護師がつぶやき、分娩台の側を離れた。

 真夜中の分娩室で、昌美は看護師が陣痛促進剤の使用許可を求めて医師に電話する声を聴いた。もう一人、看護師が姿を見せ、分娩の支度にかかる。

 陣痛促進剤の点滴が行われてほどなく、痛みの怒涛が押し寄せると、体の下のほうで何かがぱちんと弾けた。水風船のようにふくらんだ卵膜が破綻したのだった。あっけにとられた出産のクライマックスだった。

 また最初の看護師と二人だけになった冷たい分娩室で、不自然な格好をとらされたまま、看護師が会陰裂傷を縫合し終えるのを待つ時間は永遠かと想われ、そうやって過ごす時間が長くなるほどに、自分と赤ん坊との間に深淵が口を開いていくような錯覚に襲われた。

 裁縫が得意な昌美は、いっそ看護師の手から針をとり上げ、自分で縫ってしまいたいくらいだった。

 黄疸が強いためにちらりと姿を見せて貰っただけだった赤ん坊は、翌日の昼過ぎになってようやく、看護師に抱かれ、病室に戻っていた昌美の元へと連れてこられた。

 彼女は赤ん坊から、脂肪と出来立てのパンの匂いが混じったような匂いを嗅いだ。透明感に彩られた、まどかな顔をしている。肌の色自体は浅黒い。大人びた端正な唇をしっかり結び、髪の生え際に早くも匂うような男の子らしさがあった。

 会社をぬけ出してきた夫と二人で、しげしげと赤ん坊を眺めた。黄疸の治療を続けるために、再び赤ん坊を看護師が連れて行ってしまった。しかし、新生児黄疸はよくあることで、特に心配は要らないという。 

「男の子だったんだから、名前はやっぱりあれにする?」
 と、興奮が冷めやらぬ面持ちで夫が簡易椅子をベッドに近寄せ、顔を突きつけるようにして訊いてくる。

 すると、とっさに昌美は夫を邪険に押しのけてしまっていた。彼女は自分でも驚いて彼を見つめ、口ごもりながら弁解した。

「ごめんなさい。たった今まで……赤ん坊を見ていたせいね。あなたの顔が、怪物じみて大きく見えたの」

 それだけではなかった。赤ん坊の匂いに陶酔したあとでは、夫の煙草臭混じりの息がとりわけ嫌な臭いに感じられたのだった。豊は鼻白んだ。

 昌美は彼よりも同室の隣人を気にし、そちらへ目を走らせた。相当に年がいっているように見える隣人は、遠慮のためか、向こう向きにベッドに腰かけ、帝王切開でうんだという顔の長い小さな女の赤ん坊にお乳を含ませている様子だった。

「名前は、わたしはあれでいいと思う。そうあってほしいな」
 と、昌美はいつもの温和なまなざしになって言った。

 夫婦はあらかじめ、男女一つずつの名前を考えていた。もしも、実際に赤ん坊を見たときに、その場で別の名前がインスピレーションで浮かぶようなら、その名前にしようと話し合ってもいたのだった。

「俺もあれでいいと思うよ。じゃ、決定だな。友人に恵まれ、ゆとりのある人生を送ることができますように――との願いを籠めて――友裕(ともひろ)と」
 豊の言葉に昌美はうなずいた。

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 Z…市に引っ越してきて、住まいの周辺にもいくらか慣れ、育児用品もほぼ買い揃っていた。夫の勤めるホームセンターから購入した商品も結構あった。注文を出せば、夫が見繕って買ってきてくれ、これには助かった。

 ベビーベッドを置くと、ひと部屋がほぼ潰れた。産婦人科は何軒か見つけたものの、どれもホテルのように華美な外観で、その雰囲気はこれから一個の躍動感に溢れる生命体をうみ落とそうとする昌美の生真面目でストイックな精神とは、どこかそぐわなかった。

 いくらか遠かったが、転居前にかかりつけになっていた博多駅にほど近い公立病院で赤ん坊を出産することに決め、それで気持ちが落ち着いた。

 ただ、新興住宅地の便の悪さなのだろう、ピンクの分譲マンションの側にコンビニがあったものの、食品スーパーは遠く、総合スーパーとなると、さらに遠かった。

 転勤してきたばかりで忙しく、休日には眠ってばかりいる夫をそっとしておこうと、昌美が車で総合スーパーまでまとめ買いに出かけたところ、夫に叱られた。いつ職場から電話がかかって呼び出されるかわからないから、常に車がある状態でなければ困るのだという。

 その車は彼女が持ってきたものだったのだが。夫は結婚間際に自損事故を起こしていて、幸い怪我はなかったものの、自分の車をだめにしてしまっていたのだった。そうなると、徒歩で片道半時間以上かかる道を、大きくなったおなかでとぼとぼと歩くしかなかった。

 陣痛は食品スーパーで始まった。昌美はショッピングカートのハンドルを、とっさにきつく握り締めた。果物コーナーに並ぶ苺の赤、グレープフルーツの黄からメロンの緑へと、視線を動かす。おなかが突っ張ることはこの臨月に入ってからはよくあったので、その痛みが陣痛なのかどうかが判然とせず、休み休み家に帰った。

 痛みがさらに強まり、次に起きるまでの間隔も短くなっていったので、陣痛だろうと思いながら、痛みの合間に雑事をこなし、入院の用意を整えてから病院と夫に電話をかけた。幸い、夫が職場をぬけ出して病院まで送ってくれることになった。

 公立病院へと向かう車のなかで、昌美は言った。
「春なのに、まだ寒いな。ちゃんと、うめるかしら?」
「ちゃんとうめるさ」
「幸せにしてあげることができるかしら?」
「できるさ」
 と豊は即答し、その付和雷同めいた不用意な反応に昌美は苛立った。この世は、そんなに単純なものだろうか。

 豊が突然仮面をとり、無思慮な人としての素顔を見せたかのような感じさえ抱いた。出産を控えてどこまでもナーバスになりかねない彼女は、このときこそ宝石のように緊密な、美しい答えがほしかったのだった。

 それは必ずしも、言葉である必要はなかった。微かな気配だけでも充分だったのだ。昌美の強張った雰囲気が伝わったのか、彼は押し黙った。

 昌美は車のなかから落ちて行く夕陽を眺め、そのまま陣痛の波をかぶった。波が去ったあと、今度はやわらかな声で口をきいた。

「ねえ、魂には赤ん坊も大人もなくて、皆大人なのね」
「何のことだい?」
「何でもないわ。ね、病院に行く前にドライブスルーに寄って、ハンバーガーを買わない? わたしはダブルバーガーでもいいわ。それと、シェイクね」
 と昌美が言うと、豊は呆れたような声を出した。

「何だって? おいおい昌美、こんなときにダブルバーガーを食おうって言うの? 神聖な出産の前だというのに、あれほど批判していた男のハンバーガーをぱくつこうなんて、節操のないことだな。腹、弾けるぞ!」

 豊は、昌美こそ無思慮と思ったようだった。まるで、仕返しのように。そして、ファーストフード店の前をスピードを上げて通過してしまった。

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