マダムNの純文学小説

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 ホームセンター勤務の夫に人事異動の内示があり、彼がZ…市A…地区への転居の必要を妻の昌美に説いたとき、彼女は妊娠中の身で、どうにか悪阻の時期をやり過ごしたところだった。

 こんなときの引っ越しなど考えたくもないくらいだったが、煙草の吸いすぎからか色の悪い夫の唇の間からZ…市という転勤先の名がつぶやかれると、彼女は素直に喜んだ。

 久保夫妻が新婚時代を過ごしてきた福岡市近郊の農村だったと思しきこの地は、およそ街と呼べるだけの纏まりを形成してはいず、住むには半端な、何の美観も望めない、高度を上げるか下げるかして頭上を通り過ぎる飛行機の音がやたらと喧しい、目下、交通の要衝としての役割を果たしているだけといった土地柄だった。

 国道を挟んで田畑がまばらに残っており、工場などがあった。道路の片側沿いに銀行、個人経営のコンビニ、クリーニング店、パン屋、八百屋が、反対側に精肉店、米屋、小さな食品スーパー、内科医院があった。郵便局はずっと離れた場所にあって、産婦人科となると、影も形も見えなかった。

 他人に訊いて見つかった産婦人科医院はもっぱら堕胎専門で水子霊がひしめいているという噂だったため、昌美は自宅のある郡部から博多駅にほど近い公立病院を目指して半時間、バスに揺られることとなった。

 久保夫妻の住居は、一つの長屋を四つに切り分けて並べたような貧弱なつくりで、奥に位置する彼らの小さな家は崖下にあり、崖の上にはお寺があった。西日しか射し込まず、梅雨時になるとムカデが出た。

 雨で家の中が湿気ると、汲みとり式の便所の臭気が甚だしく、そんなとき、昌美は何とはなしに泣きたくなるのだった。マンションが彼女のあこがれの住まいといえた。

 この地に開発の手が伸びるのは時間の問題と思われたが、そうなれば、ここはさらに人間が住みづらい地になるのかもしれず、春にはうまれてくる子供が小学生になれば、交通量の凄まじい道路を横断して――田圃の中にある――小学校に通うことになるのはほぼ確実だった。

 その頃にはせめて歩道橋ができていればいいけれど、と昌美は消極的な、それゆえにせつない望みを抱かずにいられなかった。

 こうしたことを総合して考えてみると、この地に執着すべきことは何もなかった。妊娠下での移転という肉体的な不安要因はあるにしても、新しい環境への期待が芽ぐむ。

 だから、福岡市のベッドタウンとしてひらけたZ…市が近年、大学を中心とした学園都市としての風格を見せ始め、教育施設の整ったそこへわざわざ引っ越してくる人々も多いと夫に聞かされたときには、昌美の期待感は一気に膨らんで、ぱちんと弾けそうになった。

 マンション住まいと並ぶ彼女のもう一つのあこがれは良質の大学教育で、うまれてくる子供にそれを受けさせられれば、もう言うことはないと思う。彼女は短大出身だったし、夫の豊は名もない大学の出身だった。自分自身に対する偏見かもしれなかったが、彼女には自分が三流の人間に思えた。

 博多駅まで快速列車で二十分というのだから、ますます悪くない話だった。

「あそこは綺麗な街だよ、少なくともここよりはね」
 と、夫は言う。

「今度、Z…市のはずれにトイザらスという名のアメリカの玩具屋ができるよ。玩具のディスカウント・ストアなんだけど、正確に言うとね、日本にアメリカのハンバーガーをもってきたことで有名な実業家、藤田田(ふじた でん)がハンバーガーのときと同じやりかたでアメリカの玩具専門チェーン、トイザらスと合弁契約を結び、平成元年に日本トイザらスを設立したんだ。Z…市にできるのは、それのチェーン店の一つというわけ。ユダヤ商法を身につけた藤田の戦略は、通産省の大型店舗規制の意向を翻させたと言われているよ。彼は、日本人をハンバーガーで金髪に改造するってさ」

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 倉庫のような外観の建物から、子連れの夫婦が出てくる。男の子が胸に押しつけるようにしてもっている箱の中身は、レゴのブロックだった。

 初めてこのトイザらスという名の玩具のディスカウント・ストア――安売り店――に足を運んだとき、妻は、品数が異常なまでに豊富な、そしてまた、商品の提供という目的以外の事柄は全て削ぎ落としたかのような店内の様子を一瞥し、呆然となった。

 彼女は広い通路をうろうろして、いつしか棚のうえに積み重ねられた箱の一つに見入ってしまっていた。アメリカ人の姿を安っぽく模ったような変にリアルな人形を見、戦慄すると共にある激しい違和感と抵抗感を覚えたのだった。

 それまでの彼女の知る玩具屋が、少女時代を過ごした町中の主立ったそこへ行けば奥のほうに、精巧に丹念に製作された日本人形やフランス人形、陶器でできた人形、ガラス細工の動物、オルゴールなどをひそめていて、そこに芸術的工芸的な、豊潤な空間を開示してくれていたことに突然に気づかされないわけにはいかない。

 そこで密に息づいているものたちを買わなくとも構わない、いや、買えばむしろ、玩具屋の親仁さんは奇妙な顔をしかねない。親仁さんは、この奥の院に祀ったものたちで儲けようとは端から思っていないからだ。

 が、ここには庶民が買えそうな大量生産された玩具しか置かれていない。ここには奥の院なんてない、屋台の並ぶだだっ広い境内だけしかない。同じ玩具屋とはいえ、この二つの玩具屋をささえる意識には何という違いがあることだろう。が、何度かここにくるうち、そんなことは忘れてしまっていた。

 あ、ドーナツ。

 と子供が、初冬の日だまりに立ちどまって言った。毛先の軽い、赤みがかった髪の毛が風にふわふわと舞う。

 夫は、駐車場の真ん中あたりにとめてある愛車のミニカのほうへ体を向けたまま、ちょっとうるさそうな仕草で耳の後ろを掻き、それでもつくり笑いを浮かべてみせた。

 お、ドーナツか。それも、いいな、たまには。あそこへ入るか?

 それを聞いて嬉しそうにしたのは、むしろ妻のほうだった。

 うんうん、そうしよ! 前にきたときに貰った割引券がお財布にあるんだけれど、あれ、まだ使えるかしら。

 これで彼女は、食事の支度を1回パスすることができるのだった。料理が嫌いでなくても、途切れなく毎日では気が滅入る。夫は家事を主婦の習性とでも思っているようだったが、もはや彼女はそれほど古いタイプの女ではなかった。

 食事の支度を1回パスできるという、ささやかでありながら、このうえない贅沢な喜びにほのかに輝いた彼女の顔をちらりと見た夫の顔が、皮肉な――いや、むしろ酷薄な――表情を浮かべるのを妻は見逃しはしない。

それでも、今は突っかかりたい気持ちなどぐっと堪えるのだ。あまい匂いのするドーナツのいろいろ――ハニーチュロ、ココナツ、フレンチクルーラーブルーベリーマフィン、チョコファッション――を想い浮かべて。

 こうして、どこででも見かけるような、傍目には幸福そのものに見える親子はドーナツ店に消えた……

 この郊外ショッピング・センターの敷地内には、他にファースト・フード店、アイスクリーム店、雑貨店、書店、カー・ショップ、それに家電専門店があった。

 一年後の昼下がりにも、玩具のディスカウント・ストアから子連れの夫婦が出てきて、ドーナツ店へ入っていく。折りしも、ドーナツ店の向かいにある家電専門店の一角に置かれていた液晶テレビが、お昼のワイドショーを映し出していた。

 幼児殺害のかどで逮捕された女性容疑者の知人たちに、女性リポーターがマイクを向けていく。彼らのコメントは、買い物客たちの注意を惹かない。

 容疑者がどんな人であったかと訊かれ、彼らは異口同音に答えた。
「地味な人でしたね。目立たなくて、どこにでもいそうな人でしたよ」
 と――。

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あらすじ

主人公の久保昌美は、子育て中の葛藤から一人のママ友に殺意を抱くほどの憎しみを覚えてしまいます。その憎しみがママ友の子供に向けられるようになるまでの心理的推移を、環境や人間関係を背景に描いていきます。


まえがき

日本社会を震撼させた音羽お受験殺人事件(1999年11月22日)に着想を得、2000年5月に脱稿した作品ですが、事件を再現しようとしたわけではありません。

子育て中に底なし沼……にはまってしまう女性もいるに違いないと思われたので、その底なし沼を何とか表現したいと考えました。

2005年になって、たまたま事件現場の近くを訪ねたので、現場に隣接する寺に行ってみました。日中でしたが、寺に面した通りは人通りが少なく、静かでした。娘が受験して途中で落ちた大手出版社が同じ通りにありました。

ワープロで感熱紙にプリントアウトした作品の保存状態が悪く、このままでは読めなくなりそうでしたので、改めて校正しつつ連載形式で公開していく予定です。

織田作之助賞」で三次落ちした、原稿用紙100枚程度の小説です。

主な登場人物

久保昌美……主婦。主人公。
久保豊……昌美の夫。ホームセンター勤務。
久保友裕……久保夫妻の子。
川野辺皓子……昌美のママ友。夫は商社勤務。

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